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終わっちゃったなぁ。とても長かったと思う。けど、毎週のエンドレスエイトが好きだった僕には幾ばくかの感慨とともに、ただ終わったという感覚が根強く残ったラストだったかな。
さらっと流れるように終わった第一回。困惑とともにループ構造が明らかになる二回。ループの脱出を信じて費えた第三回。今日こそは脱出するかと信じ、またもや裏切られる第四回。第五回からは完全に惰性だったような気がする。変化するシーンに一喜一憂し、声優さんの演技に耳を傾けながら毎週のように同じ結末を目にし、終わらないことに安堵する『エンドレスエイト』とともにあった日々はそれはそれで愉しかった。
放映8回目、15532回目にしてようやく目にした脱出シークエンスはわくわくした。画面が揺れ動き、反転するまでのデジャブとともに盛り上がっていくBGMには胸の高鳴りを感じたよなぁ。結末としては、ハルヒに「宿題」という解を提示したキョンだったのだけど、これがもたらしたものはハルヒの表情にすべてが垣間見れたよね。彼女が物足りなかったものというのは、ひとえにキョンへのまとまりきらない感情を胸に秘めた団員とともに過ごすという一体感だったのだと思う。何をしても自分の意のままに進む夏休みは、ただひたすらに「消化」のイメージを植えつけた。
つまりはハルヒはキョンに反抗してほしかったのよ。ひっぱっていって欲しかった。つつみこんで欲しかった。そうした願望を胸に抱えながらも、ただ自らを守るプライドから伝えることの出来なかったハルヒは充分女の子していたのではないかな。
ロイヤルストレートフラッシュを引き起こした15532回目の奇跡。
ここからが本題なのだけど、僕がこの『エンドレスエイト』をみてきて思い出したのは、アニメ『CLANNAD ~AFTER STORY~』(以下、クラナドAS)の第22話「小さな手のひら」で感じたもやもやで、これらと一連の『エンドレスエイト』の流れとが一つに繋がる感覚を得た。
CLANNAD ~AFTER STORY~ #22 小さな手のひら » だい亜りー
僕はどうしてもその後の幸せを素直に受け入れることが出来ない。果たして本当にそれは無かったことにして良かったのだろうか。
(中略)
僕には「渚がいるif」の世界は、「渚がいないif」の世界を全否定した後に成立した世界に見えてしまう。
したがって、渚に続き汐までも失って失意のままにフェードアウトした「渚のいないif」の世界の朋也は渚の夢を思い描きながらその一生を閉じさせられざるを得なかったのだ。
このもやもやを生み出した「物語の否定」、現行の世界から平行世界への接続に際して出来た「矛盾」、大きなひずみを、8回目の『エンドレスエイト』を経て、ようやく乗り越えたのだな、と。
それは壮大な”やり直し”を想起させた感覚でした。
エンドレスエイトを経て後に残った感慨は、このクラナドASの#22で引きずっていたもやもやと対になっているような気がする。
あのとき(しっかりと)描けなかった平行世界への接続を、過剰なループのシークエンスを経てやってのけたのではないかな。なんとなくなのだけど、受け手としての(恣意性を孕んだ)視点から見えてくる『京都アニメーション』像が身を結ぶ感覚を得たのですよ。
幻想世界に代表される平行世界と朋也との境界を繋ぐのが『街』という枠組みでありました。
クラナドASを包括する『街』という枠組みと、エンドレスエイトの密室とループによる反復が作りだすガジェットとしての『エンドレスエイト』。
この二つの共通項を踏まえたうえで、前者は平行する不連続な世界への接続、後者は不連続な世界の複合体としての『エンドレスエイト』が外部の世界へと接続する過程を描いた。
これに関してクラナドASは実質1話しか横の接続を描けなかったのですよね。その結果が、順接に接続されたことによる前の「渚のいない世界」の全否定を引き起こしてしまったのだけど、反対にエンドレスエイトは8話も消費して延々とこの接続シークエンスをひっぱっていったのだ。ここに「渚のいない世界」と「渚のいる世界」のような二項対立的な矛盾は発生しない。むしろ、『エンドレスエイト』は「否定」されるべくして描かれたともいえる。
ここで思い出して欲しいのは、クラナドASもまた16話の「渚の死」から22話まで同じく8話を使って一連のシークエンスを描いていたということ。これが失敗だったとするならば、間の話数を使って「物語」の中で”最高の瞬間”を描き出してしまったことなのだと思う。だからそれらが接続シークエンスの失敗によって塵に帰してしまった。
それとは対照的に、『エンドレスエイト』においてはただ黙々と同じ「物語」を用いて接続シークエンスのみに目を向けさせていた。今か今かと意味ありげに反復された「宿題」というタームがダイナミックに『エンドレスエイト』の外の世界へと接続する様子は、予想は出来ても圧倒されてしまう説得力を超えた迫力のようなものすら感じさせた。
クラナドASの結末について、僕は幻想としての『京都アニメーション』像が崩れ落ちていく感覚をみたのですよね。ああ、「原作」の解釈という観点から出来るだけ距離をおくことで忠実に「再現」してきたのだと。そこの融通の利かなさと、作り手における「作家性」の処理にちょっとした失望感すら感じていました。
その結果引き起こしてしまった大きな矛盾とねじれ。
だけど『エンドレスエイト』においてはその憂鬱を打破せんと8話もの尺を使い、ただその一点にのみ注力したように僕には見えたのですよ。
この執着は異常だよね。7話をまるまる踏み台にして最後の1回に執念ともとれる「接続シークエンス」を描き出しただけでなく、不連続な平行世界の存在そのものを「肯定」してみせた。
「だが、ヒントはもらった。あの何度もの既視感。特に最後に感じたあれは、以前に同じ立場にいた俺たちからの贈り物だったのかもしれない」
だからかな、この感慨は。この試みが果たしてよかったのかどうかはまだちょっと判断がつかないのだけど、揺らいでいた『京都アニメーション』像が反旗を翻したイメージは鮮烈な衝撃を与えてくれた。少なくとも面白いとは思ったし、また興味を抱くことも出来たかな。
『CLANNAD ~AFTER STORY~』を経て以来、僕の中で『京都アニメーション』というブランド意識は懐疑的なものになり、『けいおん!』を通して作画が称えあげられ「物語性」への賞賛が垣間見れないという風潮を僕はずっと疑問に思ってきたのだけど、”京アニ”のこのアプローチは”京アニ”を自己破壊する”やり直し”に思われた。
「俺の課題はまだ終わってねぇーーーー!」
これが新しい”京アニ”の風をもたらしてくれるのか、あるいは”角川”のプロバガンダリズムを再確認することになるのかはまだ分からない。だが、この”終わったのだなぁ”という確かな感慨を僕は忘れないと思う。
京都アニメーションの憂鬱は、自己破壊によるやり直しの美学に乗せて溜息への序曲を歩みだすのだろう。
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涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)
- 谷川 流
- 角川書店
- 短編「エンドレスエイト」収録
~ 『 涼宮ハルヒの憂鬱 』の各話アーカイブ一覧 ~



















はじめまして
興味深く拝見させていただきました!
「CLANNAD AS」は放送開始前から石原監督が「ゲームのマルチエンディング」と「アニメの一直線」という構成自体に既に違いがあり、それをアニメ化するのが大変と言っていましたね。
そして22話「小さな手のひら」で一気にループする方法は京アニでは「ギリギリ」まで考えた末のやり方だったのかなぁって思ってます。
ただゲームをやってない視聴者はループに唖然とした反応が多かったですのでアニメで「ループ」というものをやるのは並大抵のことではないというのがこのときわかりました。
そして今回のハルヒの「8回のループ」も何かしらの影響(角川?京アニ?)でこうなったと思うのですが、「CLANNAD AS」のループのやり方をもう一度自分達で見直して、何かしら変化がおきたことが分かったのがこの8回で感じた感想でした。
通りすがりできたのですがこちらの記事が面白かったので感想コメ。
たぶん制作陣がエンドレスエイトで示したかったのはこちらで書かれているようなものだったと思います。ただ、問題はそれが大多数の視聴者に伝わってたかどうか。頭で理解出来てなくても感覚的にでも理解出来ていたらいいのですが、今回の他の人の感想を見るとあまり伝わってない気がします。
「伝わらならないければどんな名作も無意味」という私の考えた方からすれば今回のエンドレスエイトは失敗だったかもです。でも「作品性」の高いものをつくれることは今回のエンドレスエイトでも証明されたわけですし、京アニにはそれを「私達に理解出来る内容」に今後は作っていってほしいですなと思います。
ビバ、村元劇場!(分かる人だけ分かって頂ければ)
Mr.Tさんコメントありがとうございます。
「ゲームのマルチエンディング」と「アニメの一直線」の一番の違いはループ構造での「平行世界」の存在そのものを許容するか否かなんですよね。
原作は未プレイなのですが、原作ではエンディングをコンプリートして光のカケラを集めていくことで渚とのトゥルーエンドにたどり着けるのだと聞いたことがあります。これだとまさしく”平行”に位置していてお互いに干渉も「否定」もし合わないのだと思えますが、アニメの流れを思い出してみると「渚のいない世界」の末尾に「渚のいる世界」の起点が接続し、時間軸がその起点へと回帰してしまうことで「渚のいない世界」そのものを塗りつぶしてしまいました。
『街』という舞台装置を通じて描かれてきた、「渚のいない世界」での名シーンはなかったことになったんだなぁと当時の放映時は落胆したもので、幻想世界を通じての渚と朋也との繋がりもまたその「否定」のイメージを強く植えつけたのだと思います。
個人的にはアニメのクラナドASは「渚のいない世界」に強く輝くものを感じたので、もったいないなぁと思ってしまったわけです。
クラナドASで姿を現した『街』とは何だったのだろう、と『街』そのものを描いてきたクラナドASの矛盾にしこりを残した余韻だったなぁと当時は強く思ったものですが、今回のループ構造はうまく対になっていたなぁ、と。
ループ構造を前面に押し出し、あえてエピソード単体では余韻も感慨も残さないような話でただループからの脱出のみに視線を向けさせる内容には驚きを覚えました。ループ構造における「平行世界」の存在を許容し、あまつさえキョン自身の言葉で「肯定」してみせた。
8週もひっぱったという事実に京都アニメーション自身に感じた不器用さは否めないのですが、あえて”議論を呼ぶことをする”のが最近のメディア戦略なのかなーとも実感した一連の騒動でありました。
タリ・タカさんコメントありがとうございます。
クラナドASとの比較は僕個人のしこりが結びついたものなので、この『エンドレスエイト』自身がそれを想起させるものだったのかどうかはちょっとあやしいなと思っているのですが、おっしゃるとおり感覚的に訴えかけるものは少なからずあったように感じます。
果たしてこの『エンドレスエイト』自身が「名作」なのかはわかりませんが、少なくとも”議論を呼ぶことをした”という意味ではメディア戦略においては「成功」だったと思います。
そうしたメディア展開でのうんぬんを無しにして純粋に『エンドレスエイト』について考えてみれば、すでに出来上がってしまった『京都アニメーション』というブランド像を打ち壊す「意図」があったのではないかと受け手に想起させるものはありました。ただ「意図」という言葉は大いに恣意性の孕んだもので送り手と受け手にとって全く違う意味を含むことはままあるので、作品自体がもつ「作品性」について個々人の受けとめ方に託された騒動だったのではないでしょうか。
僕の感じた雑感としては、やはりハルヒは別格なんだな、と。
”京アニ的なるもの”を僕はまだ否定も肯定もしませんが、少なくともクラナドASで感じた落胆を払拭出来るくらいには興味をひかれた騒動でありました。